文章:春日康徳
1日の授業が終わり、下駄箱や中庭が騒がしくなりはじめていた。
これから下校する生徒。部活動に急ぐ生徒。あるいはまた、遅めの登校(ログイン)をする生徒……。
さまざまな生徒が行き交う校舎は、それは賑やかで、活気に満ちていた。
そんな輝かしい時間を過ごす生徒たち。彼らを横目に、茅野瑞希(かやの・みずき)は生徒と生徒の合間を縫って生徒会室を目指していた。両手には、腰から顔が埋まるほどの高さに積み上げられたプリントの束を抱えこんでいた。一枚のプリントはまるで重さを感じないのに、どうして重なるとこんなにも重くなるのか。さすがにめげそうになって、茅野は(この学園が円滑に運営されるよう、陰ながら働いているのが自分たち『生徒会』なのだ)という思いで自らを奮い立たせた。
逸材が集う生徒会役員のなかにあって、茅野は会計という役職こそ与えられてはいたが、いまだ何者でもないただの下っ端だった。強烈なリーダーシップも、数値から今後の展望を読み解く分析力も、かといって文章作成能力があるわけでもない。
なんの取り柄もない、否、むしろ役員たちに迷惑ばかりかけているのが茅野だった。
しかしそうやって自己嫌悪に陥りながらも茅野には、ひそかな夢があった。
いまはたしかに自分は何者でもない。でも、いずれは——。
自分とおなじ歳にもかかわらず、五十嵐会長も筒井副会長もずばぬけたリーダーシップや決断力、明晰な分析能力を持っている。いつかは彼らのようになりたい。そうして学園をよき方角へ導く一助となりたい。それが茅野の願いであり、3年間の目標だった。
ところが、いま茅野はプリントを運ぶだけの雑用係でしかない。
不甲斐ない自分にため息をつき、足もとに目を落としたそのときだった。
「あの!」
「えっ!?」
不意に声をかけられ、顔をあげた茅野は、視界を塞ぐプリントの束から首を伸ばして声をかけてきた相手をたしかめようとする。
それがいけなかった。態勢を崩し、茅野は抱えていたプリントを放り投げ、派手に転んでしまったのだった。
バサバサッと束になっていたプリントが宙を舞う。尻餅をついて転んだらしいことを把握してから、茅野はすぐに周囲を見まわした。
眼前には、見慣れない女子生徒が心配そうにこちらを見ている。
「すみません! すみませんっ! 書類で前が見えなかったものですから……お怪我はありませんでしたか?」
といいながら、茅野は何度も頭をさげた。
「ほんとうにすみませんでした!!」
「そんな。こちらこそ突然驚かせてしまって……」
女子生徒は苦笑いしながらいった。
「何か大変そうだったので、声を掛けたんですけど、逆にご迷惑でしたか……?」
「あ、いえ。すみません、こちらが悪いんです……」
さらに頭をさげてから、茅野は視線を床に落とした。せっかく順番通りに並べて、数もそろえたプリントがぐっちゃぐちゃだった。だがいまは散らかしてしまった廊下を片付けるのが先決だ。パニック状態に陥りながらも、最低限の理性を働かせて茅野は廊下に散らばったプリントをかき集めはじめる。
「手伝います」
そういって女子生徒も散らばったプリントを回収しはじめる。
「とんでもなく沢山の書類ね…こんなのひとりで運ぶなんて、無茶よ」
唇を尖らしながらプリントを集める女子生徒に申し訳なくなってきた茅野は、「あ、すみません……」とふたたび謝った。
「そんなに謝らないでください」
不意に手を止め、茅野と目を合わせて女子生徒はいう。
「さっきから5回も謝ってます」
「すみま……あ……」
いいかけて、茅野は口をつぐむ。
そんな彼を見て微笑んだ女子生徒は、
「実はわたし、先日、転入してきたばかりで……」
と打ち明けた。
転入生といえば、初日のオリエンテーションの際に生徒会が総出で学園内を探した彼女だ。茅野は思わず、
「あ、例の転入生さんですね!?」
と声をあげた。
「例の……?」
「あ、いえ……」
咳払いをしてお茶を濁した茅野は、
「僕は茅野瑞希です」
と名乗った。
「茅野さんって、生徒会の……会計でしたっけ?」
初日のオリエンテーションで五十嵐会長と話をした転入生は、どうやら生徒会のことを聞き及んでいるらしい。それにしても、下っ端の自分の名前を覚えてくれていたことは茅野にとってはとてもうれしいことだった。
「いやあ……僕みたいなのが生徒会役員なんて面目ない。書類運びひとつもまともにできないんです」
自虐を込めて茅野がいった。
「プリント……すこしシワになっちゃいましたね……」
散らばったプリントを回収し終えて、転入生はいう。
「また会長に怒られちゃうかな……」
茅野が不安のため息をひとつ放つ。
「もしよかったら、いっしょに生徒会室に行ってもいいですか?」
「え?」
転入生の提案に驚きながらも、茅野が聞きかえす。
「なんのために……」
「茅野さんが転んだのは、わたしのせいでもあると思うんです。だから一緒に会長に謝りましょう」
「そ、そんな! 悪いですよ」
手を振って、茅野は転入生の申し出を断る。
「女性に力仕事を手伝って貰うなんて、いくら僕でも面目が立ちませんよ」
「ひとりでこんなに大量の書類を持っていくなんて、無茶だと思います!」
義憤に駆られたかのように、転入生は拳に力を入れて力説する。
「じゃあ、せめて1/3だけプリントの束を持たせてください。それくらいでしたら、かまわないでしょう?」
「う~ん……」
生徒会役員以外の生徒を無断で手伝わせて、さらに怒られはしないか、そんな不安が茅野を悩ませる。
「それに、わたしもちょうど生徒会長に用事があったんです」
「生徒会長に……?」
転入生の顔に、一瞬、深刻そうな表情が浮かんだ。なにやらよほど大切な用件があるらしかった。
「ね? そうしましょう!」
転入生を気遣う茅野にはお構いなしで、転入生はすでにプリントの束を手にしている。
「わかりました……す、すみま……」
ふたたびいいかけて、茅野は首を振る。
「あ、ありがとうございます!」
「よろしい!」
2人は大きく笑い合って、生徒会室へと向かっていった。
「副会長、遅くなりました。予備予算検討用書類をお持ちしました!」
生徒会室に入室した茅野が、元気よくいう。
「茅野くんか、ご苦労……ん?」
眼鏡越しに目を光らせた筒井は、ひとつ咳払いしてから、茅野の後につづいてプリントを持ってきた転入生を見とがめる。
「……そちらの女性は?」
「あ。ひとりで書類を持ってこれなかったので、途中で手伝ってくれたんです……」
女性に頼ってしまったことを引け目に感じながら、茅野は細い声でいう。
「そうか……僕からも礼をいうぞ」
筒井は立ちあがり、眼鏡を押しあげた。
「生徒会副会長を務めさせてもらっている、筒井誠司だ。よろしく」
「はい。よろしくお願いします」
居丈高にものいう筒井に対して、恐縮した転入生が会釈を交えていった。
「うちの生徒会は会長のきまぐれや我が儘のお陰で、大量に仕事が増えて忙しくてかなわんのだ」
腕をくんだ筒井はため息をもらした。
「こうやってすこしでも円滑に仕事が運ぶよう手伝って貰えるのはありがたい限りだよ」
「いえ。大した事をしたわけではないですから……」
「まあ、それもそうか。プリントを運んだだけだしな」
直裁なものいいに、茅野が冷や冷やした。せっかく自分の手伝いをしてくれた転入生に申し訳なくて、目を落とす。
「いらっしゃいませ〜」
茅野と同じく生徒会会計の辻蔵弥生がにっこりおだやかな声で出迎えてくれる。
「ちょうどお茶がはいりましたよ〜。今日は奈良県産の月ヶ瀬茶です♪」
弥生がみんなにお茶を配りはじめた。
「ひょっとして、あなたが会計の辻蔵さんですか?」
「え? あ、はい……」
湯呑みを載せていたお盆を抱えこんで、弥生は頬を赤らめた。
「生徒会長から私のこと聞いたんですね?」
「ええ……」
「よろしくお願いします! わからないことがあったら、なんでも聞いてくださいね!」
親しみやすく、声をかけやすい弥生に気を許したのか、転入生はさっそく、「えっと、じゃあ、ひとついいですか?」と遠慮気味に切り出した。
「なんでしょう?」
「ミカちゃんの話です」
「……ミカちゃん?」
話を聞いていた筒井の顔色がさっと変わるのが横目でわかった。茅野は一波乱起きそうな気配に生唾をごくりとひとつ呑み込んだ。
そんな筒井の変色に一切お構いなしで、転入生はつづける。
「ええ。この学校の天使の……」
「天使? 天使だって!?」
大声を放ってから、筒井は大きく嘆息して額に手を当てた。
「また君もUFOくんか……」
「……UFOくん??」
あまりの激しい筒井の反応に驚いた転入生が、恐る恐る訊ねる。
「天使だの幽霊だの宇宙人だの臨死体験だの前世の記憶だの、そういうオカルト的で、お約束の非科学的な妄想を現実にある常識のように語る人のことを『頭の中がぶっ飛んでいる人間』ということで、『UFOくん』と呼ぶ事に僕は決めているんだ。君はこの歳になっても、まだそんな夢想の世界に住んでいるのかね?」
間髪入れずまくし立てる筒井の勢いに負けじと、転入生は
「副会長は見たことないんですか? ミカちゃん……」
と悲しげに問うた。
「まあ、だいたい不可思議で非現実的に思える事にも何かしらの科学的説明が付くものだよ。かの、アルバート・アインシュタインは、量子力学の不確定性の論理が示された時に、“神はサイコロ遊びはしない”と語った。後にそれは、アインシュタイン最大の過ちとされたが…その量子力学の世界にも近年科学のメスが入り始めているのだ。かつて科学を持たなかった人間は、人知の及ばぬ出来事を神の仕業として宗教や呪術を科学として用いたが…もし本当に神の意志や論理があるとするならば、この世界を司る物理法則こそが神の意志であり、この世界を形作る真理なのだ!人間の精神的甘えや怖れが生み出す妄想ではなく、科学こそが本当の真理に辿り着く唯一正しい手段。それを用いずに非論理的な幻想を信じるなど、恐ろしく幼稚で愚かな行為だとは思わんか?」
ああいえばこういう……倍になって返ってくる反論に辟易としながら、転入生は一歩引いて答えた。
「は、はぁ……。ごもっともで……」
「ほら、駄目ですよ、副会長! 会ったばかりの人に科学を語っちゃ!
そういって弥生が助け船を出す。
「辻蔵くん余計なお世話だ!」
「自分の目で見た現実を否定する方が非論理的だって、会長さんに言われて、その話は決着が着いたじゃないですか!」
「むむ……」
弥生の言葉に二の句もつげず、筒井が押し黙る。
「副会長の訳のわからない話を聞かされて疲れたでしょう」
「辻蔵さんは、見たことありますか?」
「ミカちゃん…ですか?」
「はい」
「実は、今日生徒会室にお邪魔したのも、その件でお話ししたかったからなんです」
用事があるといっていたのは、このことか。ようやく合点した茅野は、つづく転入生の言葉に耳を傾けた。
「入学早々、ミカちゃんを見かけて……その時、生徒会長に座敷童子とか精霊みたいなものだっていうようなお話を聞いたんです。でも、この間その話を聞きなおしたら、生徒会長は『そんな物はいない』の一点張りなんですよ」
オリエンテーションの際に、五十嵐会長はどうやら翔愛学園に現れる天使の存在を打ち明けたようだった。
ところが、学園生活が始まってみれば一転、会長は天使の存在を否定している。
この矛盾と、入学以来、見かけなくなってしまった天使の存在。その両方に疑心暗鬼になった転入生は、ある種の覚悟を抱いて生徒会室にやってきたのだった。
真剣な転入生に問われた弥生がどう答えるのか。茅野が注目していると、
「そうでしたか……会長さんがそう言うなら、いません!」
とあっさりいった。
「え……!?」
戸惑う転入生は、
「じゃあ、この学校の天使は、ミカちゃんは、いないんですか!?」
「あなたがいると思うならいるかもしれないし……副会長のように信じなければ、二度と目にすることもないかもしれません」
真剣に質問をぶつけてくる転入生に応じるように、いつもにこやかな弥生も真剣な眼差しで答える。
「生徒会は第一にこの学園の中心であり、魂でもある〝存在〟のための組織です。われわれ生徒会は、公式にはいない、天使を守り、正しい方向へ育てる為に尽力する組織です♪」
天使という言葉には賛同いたしかねるというように、筒井が咳払いする。
「なるほど……」
転入生が唸るようにいった。
「初めてミカちゃんを見たとき、会長が言っていました。ミカちゃんは、この学園という空間を共有した人たちの写し鏡。今この時を学園で過ごす私たち自身生徒達の心を感じ取って成長する、天使の心は学園そのものと……」
「はい♪」
「話せて良かったです。なんだか、ミカちゃんに会ったのがもしかして夢だったんじゃないかって。本当にあったことでも、一緒に居た人に否定されてしまうと、なんか自分でも自信が持てなくなっちゃって……」
納得し、溜飲を下げる転入生と生徒会メンバーたちのところへ、
「あ~~~まったく! ゑびちゃんの長話には困ったもんよ!」
と大きな声とは正反対に、ちいさな女の子が生徒会室の引き戸を開け放つ。
理事長先生の遠戚にあたる五十嵐会長は、彼のことを『ゑびちゃん』と呼んでいる。
「もう……半分は自分の思い出話なんだもの!」
ぶつぶついいながら、見慣れない生徒が生徒会室にいるのに気づいて飛鳥は、
「あら、来てたの? 図々しくお茶まで飲んですっかり生徒会室に馴染んでるわね」
と切り捨てる。
「お疲れ様です、会長……」
転入生へのあいさつもそこそのこに、五十嵐会長は、運びこまれたプリントの束から、一部を取り出して目を通しはじめた。
刹那、彼女の顔が歪んで、
「ちょ~~~~~っと! なによ! このしわくちゃの書類は!!」
とふたたび大音声でいった。
「すみません! 会長!! プリントの束を運ぶ途中で落としてしまいまして……」
このときを覚悟していたかのように、茅野が深々と頭をさげる。
「かぁ~やぁ~のぉぉぉ~! この愚か者がぁ~! 書類運びひとつもまともに出来んのかぁぁぁ~!」
「ちょっと待ってください!」
「ん!?」
生徒会長の逆鱗にあえて触れようとする転入生に、茅野ははらはらした。
「茅野くんがプリントを落としてしまったのは、わたしが彼を驚かせてしまったからなんです」
「あら、そう……あなたの所為だったの……」
意外にあっさり引き下がる五十嵐会長に、茅野はうっすら薄気味悪さを感じていた。完璧主義者の生徒会長は、こんなことで許してくれる人じゃない。
「ちょっとマズいですよ! 会長に弱みをみせると……」
茅野が小声で転入生にアドバイスしようとすれば、
「いーや! 彼女が悪いって言ってるんだから、彼女の所為よね?」
と意地悪く五十嵐会長が確認してくる。
「あ、はい……」
「ミスは仕事で挽回してもらわなくてはならないわ」
「挽回……?」
生徒会長は無茶な仕事を転入生に与えようとしている。茅野は察知したが、ときすでに遅かった。
「いま。この生徒会室に居なくてはいけないのに居ない愚か者がいる! 探し出して捕まえてこない限り、今日はもう顔を出さないつもりだわっ!」
「というと、男子書記の……」
「そう! 夏樹啓太郎!!その愚か者のことよっっ!そいつを探し出して、この生徒会室に即時連行してきなさい!」
「そんなこと言われても、会長! 転入生はその人に会ったことも無ければ、顔も知らないんですよ!?」
「啓太郎は赤毛でアホ面、釣り目でいかにも軽そうな男だ。まあ、ここは大人しく会長の指示に従うのが論理的だろう」
筒井が合いの手を差し挟む。
「わ、わかりました……」
会長の挑戦を受けて立つ、というように、胸を張って転入生は答える。
「彼を探して、ここへ来るように言えばいいんですね?」
「か・く・じ・つ・に! 連行してきなさいね!!」
飛鳥が念を押す。
「居そうな場所の心当たりなどは……?」
「ないわ」
取り付く島もなく飛鳥がいった。
「あったら、すでに連れてきているわ」
「……では」
踵を返した転入生を、
「ちょっと待ちなさい!」
と飛鳥がふたたび呼び止める。
「まだ、なにか……!?」
「ついでだから、静も呼んで来てちょうだい。図書室にいるだろうし、近いんだからかまわないでしょ?」
静とは生徒会書記の女子生徒だ。彼女もまだ生徒会室に顔を出していなかった。
「行ってきます!」
茅野の罪をかぶる形で、転入生は仕事を無茶ぶりされてしまった。罪悪感に胸を締めあげられながらも、茅野は転入生が無事、2人を見つけ出すことができるよう、祈るしかなかった。
つづく