『二つの星座』
その日、久々に私は寝坊した。
「やばい!遅れる!」
どうして目覚ましが鳴らなかったのだろう。いや、気付かずに止めただけかもしれないが、そんな事はどうでもよかった。
「忘れ物は・・・なし!オーケィ!」
鞄の中に部活で使う水泳道具一式があるのを確認すると、私は慌しく自分の部屋を飛び出した。
「いってきまーす!」
「涼子ー。朝ごはんはー?」
「パンくわえてるー!」
「ちゃんと水分取るのよー!」
家のどこかから聞こえてくるお母さんの声に返事をしながら、私は革靴を足の先に引っ掛けた。
「うわ…」
玄関を開けた途端、むわっとした夏の香りが私を出迎えた。
「あっつぅ…!」
数週間前の梅雨が嘘のように、カッとした日差しが照りつける。思わず瞳を閉じたが、それでも八月の太陽は無遠慮に目蓋の内側を照らしてきた。こんだけご機嫌な太陽ならば、秋にはさぞかし美味しいものがたくさん出来ることだろう。
「絶好のプール日和ね!」
冷房の効いた部屋の中へ戻りたくなるのを誤魔化すと、私は学校へ向かって走り出した。
今日は寝坊してしまったから、のんびり歩いている余裕はなさそうだ。
「急げ、急げ…」
両足を交互に前へ前へと動かす。
私は長身だから一歩一歩は大きかったが、走る速度はそんなに速くはなかった。
「水泳部員は、水の中じゃなきゃ、ダメなのよ…」
自分に向かって言い訳をしてみるが、現実は何も変わらない。
二年前まで通っていた中学校を横目に住宅街を走り抜け、河川敷を通って商店街へと出る。ここまでくれば、学園までは緩い坂が続く一本道だ。
「なんとかっ、間に合いそうっ。」
ポケットから携帯を取り出して、時間を確認する。
部活が始まるのはまだまだ先だが、私の登校を待っている大切な親友をいつまでも待たせるわけにはいかなかった。
鮮やかな朝の海と透き通った夏の空、二種類の蒼を見ながら坂を駆け下りていくと、やっと正門という名のゴールが見えてきた。
「よっし、いつも通り。」
時刻は八時を少し過ぎた頃。
お天道様が「そろそろ本気出す」と言わんばかりに、周りの気温をどんどん上げている。
私は額に滲んだ汗を拭うと、整わない息のままに正門をくぐった。
――翔愛学園――
校門前ではいつもと変わらず天使像が朝からいちゃついていた。
「炎天下なのにご苦労様。」
きっとこの天使像が造られたのは冬なんだと思う。あ、いや、でもそうだとしたらコートとか着てそうだけれども・・・。
「ま、どっちでもいいけどね。」
私にとっての天使はこの先の下駄箱で待っている。
お熱い天使像に一瞥すると、私は太陽から逃れるようにその場を後にした。
校舎に入ると、暑さが少し和らいだ。日差しがなくなっただけで随分と変わるものだ。
「ええと…あ、いたいた。恵ー!」
「あ、涼子ちゃん。」
腰まである黒い髪をなびかせた小さな女の子が、私を見つけて手を振った。
彼女の名前は、藤島恵。
小さな女の子、と言っても私のクラスメイトだから同級生だ。ただ、私とは真逆で病弱で背が低い。学園の寮に暮らしているから一緒には通学出来ないけれど、こうして毎朝下駄箱で待ち合わせて一緒に教室まで行っている。
「恵、おはよー。」
「うん、おはよう。」
恵は柔らかに微笑みながら、朝の挨拶を返してくる。
涼しげな声をしているのに、その笑顔はお天道様より眩しく見えた。
「うわ、汗びっしょりね。」
「うん。ちょっと走ってきたから。」
「ちゃんと泳ぐ前には水分とってよね?」
「はいはい、あんたは私のお母さんか。」
談笑をしながら、私は下駄箱の一番上の段に手を伸ばした。
「よいしょっと。」
伸ばした手の先には、私の名前が書かれた下駄箱――ではなく、『藤島恵』と書かれた下駄箱があった。
別に暑さにやられて名前を間違えたわけではない。ただ、恵の身長では一番上の段には届かないのだ。
「いつもありがとう、涼子ちゃん。」
「なに改まってんのよ。水臭い。」
「ふふ、そうね。」
恵は下の段にある『新山涼子』と書かれた下駄箱から上履きを取り出して私に渡してくれる。この些細なやり取りは、夏休みになっても変わらず、まるで儀式のように毎朝続いていた。
恵との出会いは二ヶ月と少し前。
季節は新緑の五月。各クラスにも木々と同様に色が出始めた頃だった。
身体が弱く、田舎の病院に入院していた恵は、その日新学期になって初めて学園へと登校してきた。
私はたまたま寝坊して、登校時間ぎりぎりに校舎の中へとたどり着いたが、そこで下駄箱に向かって必死に背伸びをしている恵を見つけたのだった。今でも覚えている。思えば、あの時からこの関係は続いていたのだ。
そして、二ヶ月経った今。
恵は一学期の欠席分を埋めるために、こうして夏休みに補習を受けにきていた。
「ねぇ、今日は何の授業受けるの?」
「ふふ、なんだと思う?ヒントは宮下先生よ。」
恵は顔の横で人差し指を立ててみせた。誰かの真似だろうか。
「宮っちか~。てことは、英語か国語ね……ん~、English!」
「じゃらららら……じゃん!せいか~い!」
これは生徒会のあの人の真似だ。
「凄いわね。3日連続で当ててるわよ。」
「はっはっは。エスパーって呼びなさい!」
「鼻が大きく出来たらね。」
「……え、耳じゃないの?」
素で言ったのかボケで言ったのか、たまに判別が難しい時がある。
「そうだ、涼子ちゃん。話は変わるけどもうすぐ夏祭りがあるじゃない?」
「え、あ、うん。」
「もし、まだ誰にも誘われてなければ、一緒にいかない?」
「勿論オッケーだよ。・・・ちぇ。私から誘おうと思ったのにぃ。」
「ふふふ。早い者勝ちよ。じゃあ、楽しみにしてるわね。」
「うん。」
夏祭りの話をしていると、あっという間に教室の前に着いた。
「それじゃ、補習がんば。」
「ええ、涼子ちゃんも部活頑張ってね。」
「うん。また、三時過ぎに図書室で。」
私の部活は三時には終わる。
恵は午前中で補習が終わるから、午後は大抵図書室で本を読んでいる。
「分かったわ。…あ、ちゃんと水飲むのよ?」
「はいはい、分かってますよー。」
ピン、と恵の額にデコピンをする。
こうして毎朝恵に会っているから、私は部活も頑張れるのだ。
たわいもない恵との時間。
夏休みが終わるまでずっと続くものと、その時は思っていた。
☆ ☆ ☆
八月も一週間を過ぎたある日の午後。
その日も夏の匂いは変わらず、今が盛りとばかりに蝉は大合唱で夏を盛り立てていた。
「あれ?」
部活が終わり、図書室を覗いてみるとそこに恵の姿はなかった。
「おかしいなぁ。まだ教室にいるのかな。」
補習は午前中には終わっているから、もう教室にはいないと思うんだけど…。
私は念のため、教室へと向かってみることにした。
「ん~、やっぱり誰もいないよねぇ。」
教室の扉を開けると、そこには人を寄せ付けない暑い空気が漂っているだけであった。
一体どこに行ったのだろう。
「確か今日の補習は山木先生って言ってたっけ。」
それなら理科室とか…?
可能性は高くないと思うけど、私は目的地を理科室へと決めた。
――理科室――
コンコン
「失礼しまーす。」
返事も待たずに理科室の引き戸に手をかけた。
室内からぶわっと冷たい空気が溢れ出す。
(寒っ…!)
いつもは薬品の匂いがするのに、今日は冷房で冷された空気が溢れ出てきた。
「おや?」
「あ、山木先生!」
「えーと、新山さんですか…。どうしたんですか。」
実験にしか興味の無さそうな山木先生に名前を覚えられていたのは少し意外だった。いや、そんなことは今はどうでもいいのだけれど…。
「恵…じゃない、今日補習を受けていた藤島さんを知りませんか。」
私の質問に、山木先生の眉が一瞬寄った。
「ああ、藤島さんですか。彼女なら頭痛がするとのことで今は保健室で休んでいますよ。」
「え!?頭痛?なんで!?」
「今日は一段と蒸し暑いですしね。軽い熱中症だと思いますよ。」
「熱中症?で、でも!ここ、こんなに冷房かかってますよね!」
詰め寄る私に山木先生は困ったように笑顔を作った。
「落ち着いて下さい。藤島さんは僕の補習中ではなく、休憩時間中に具合が悪くなったんです。」
「休憩時間…?」
「ええ。花壇に水やりをしていたようです。今日は気温が高いだけでなく湿度も高いですからね。湿度が高いと汗が蒸発しないため、体温が下がりにくくなるんですよ。」
色々と説明をしてくれているが、恵の安否のことで頭がいっぱいで、全て右耳から左耳へと抜けていっている。
「そ、それで…今、恵はどこに…」
「ですから、最初に言いましたが保健室で休んでいますよ。」
山木先生は「心配いりませんよ」と付け加えたが、恵の顔を見るまでは安心など出来るはずがなかった。
「あ…ありがとうございます……失礼します…」
私はぎくしゃくと頭を下げると、逃げるようにして理科室を飛び出した。
――保健室――
パァン!
「恵!」
ノックもせずに開け放った扉は小気味いい音を立てた。
「りょ、涼子ちゃん!?」
保健室の一角……カーテンで仕切られた向こう側から恵の驚いた声が聞こえてきた。
私は風を切るようにしてそこへ駆け寄ると、右手でカーテンを勢い良く開いた。
シャッ!
「恵!大丈夫!?」
はたして、ベッドの上で上半身だけを起こしている恵と目があった。
すぐさま顔色を確認する。
白い肌。
桜色の頬。
生気のある瞳。
唇が少し乾燥しているけど・・・大丈夫。いつもの恵だ。
「……よかった。」
「ごめんなさい、心配させちゃって。」
「ううん。…今はもう大丈夫なの?」
「ええ。」
安心して気が抜けたのか、私はへなへなとベッドの横にしゃがみ込んだ。
恵の膝の上に置かれている本が、ぺらぺらと風で捲れている。
「涼子ちゃん?大丈夫?」
「平気平気。恵よりずっと健康だから。」
片手をパタパタと振って、問題ないことをアピールする。
「そんなことより、恵。なんでこんな暑い日に花壇に水やりなんかしてたの?」
「そ、それは…」
恵の視線がスッと私から外れた。
あれ、何か困らせるようなことを聞いただろうか。
「恵?」
「……いつものことだから。」
「いつものこと?え、まさかいつも水やりをしてたの!?」
「こんなに暑いんだもの。誰かが水をあげなきゃ枯れてしまうわ。」
「そうだけど…でも、そんなの恵がやることじゃないじゃない。」
「いいの。誰がやるとか関係ないの。私がやりたくてやっていることだから。」
「恵…」
なんでそんなにカッコイイ事をサラッと言えるのだろうか、この子は…。
「でも、なんで私に言わなかったのよ…。」
「言ったら今みたいに涼子ちゃん心配するでしょ。それに手伝うとか言い出しそうだったから。」
「手伝ったらダメなの?」
「涼子ちゃんは部活で大変じゃない。私は涼子ちゃんを待っている間、時間があるからいいのよ。だから気にしないで。」
「だけど…」
「大丈夫。」
こうなると恵は頑固だ。
もしかしたら、身体が弱い自分にも一人で出来ることがあるって言いたいのかもしれない。
「分かったわ。でも、気をつけてよね。凄く心配したんだから。」
「ええ、反省してるわ。ごめんなさい。」
「ホントに反省してる?」
「本当よ。」
「なら、お詫びに私も恵と一緒のベッドで・・・」
「え、ちょっと、涼子ちゃん!?」
「うんうん、若いっていいわねぇ。」
「わ!?小早川先生!?」
いつの間にそこにいたのか、満面の笑みの小早川先生が私の後ろに立っていた。
「いつからそこに…」
「ずっといたわよ?」
「全然気がつきませんでした。」
「二人だけの世界に行ってたものね♪」
片手を頬に当てて、にっこりと笑っている。どうやら小早川先生特有の病気を発症させてしまったらしい…。
「わ、私と涼子ちゃんはそんなんじゃありません!」
「いえ。私にとっては恵がいればどこだろうと二人だけの世界ですから。」
「ちょ!?」
「う……そこまではっきり言われると、なんか悔しいわね…。」
一学期は恵を連れて保健室に行くことも多かったから、小早川先生の対処方法も少し分かってきた気がする。
「ま、藤島さんも保護者が来たしもう大丈夫かな。」
小早川先生は恵の傍に近付くと、頬に一度手を当てて大きく頷いた。
「うん大丈夫。…でも、水やりは暑い時間帯は避けた方がいいわよ。朝早くか夕方になってからにしなさい。でないと、今度は誰にも気付かれず倒れるかもしれないわよ。」
「はい、すみません。」
「分かればいいのよ。」
小早川先生はウンウンと嬉しそうに頷いた。
「それじゃ、恵、行こう。立てる?」
「心配しすぎよ。大丈夫って言われたでしょ。」
恵は膝の上の本を右手で持つと、ベッドから一人で起き上がった。
「気をつけてね。」
「はい、ありがとうございます。失礼しました。」
私と恵は揃ってお辞儀をすると、保健室を出て静かに扉を閉めた。
――放課後――
結局、保健室から出た私達は、下校時刻になるまで一緒に食堂で宿題をしていた。
今は正門前。
恵を寮まで送るために、夕暮れが迫る桜並木を一緒に歩いていた。
「じゃぁ、花壇だけじゃなくて、学園中の草花に水をあげてたの?」
「ええ。せっかく学園に来てるんだから、学園じゃないと出来ないことをしたくて。」
学園じゃないと出来ないことに水やりを選ぶあたり、恵はかなり真面目だと思う。
「まぁ、確かにこんな猛暑日が続いたら、植物も水がないと生きていけないわよねぇ。」
「涼子ちゃんが羨ましいわ。」
「え、なんでそこで私が?」
「いつも水の中にいるじゃない。」
いつもって…別に私は魚じゃないんだぞ…。
「人魚みたい。」
「ああ、人魚ならいいかな。」
「?・・・私は泳いだことがないから。」
泳いだことがない。
恵がポツリと言った一言を、私は聞き漏らさなかった。
言われてみれば一学期の水泳の時間、恵はいつも見学をしていた気がする。
「・・・そうだ!」
私は一ついいことを思いついた。
「じゃあさ、今夜一緒に泳ごう?」
「え?」
恵がビー玉のような目を更に丸くした。
「泳ぐって・・・え?」
「寮に帰ったらさ、水着持ってきてよ。私、ボンジョルノで待ってるからさ。」
ボンジョルノとは、学園の女子寮の近くにあるカフェ、「天使の泊まり木」のことだ。店長さんがいつも『ボンジョルノ』って挨拶をするから、私の周りの友達はみんなはそう呼んでいる。
「で、でも、夜は学園の出入りは…」
「大丈夫大丈夫。私に任せて!」
「夜中に外を出歩いてるのがばれたら…」
「明日は夏祭りでしょ?祭りの準備を見学しに行ったって言えば大丈夫よ。」
私は右手で胸を叩いてみせた。
「大丈夫、絶対ばれないから!」
驚きと不安が混じった恵の頭を撫でると、私達は寮の前で別れて、ボンジョルノで待ち合わせをすることにした。
後編に続く…
文章:第四回シナリオコンテストより
協力:翔愛学園カレッジコースのみなさん